宮地楽器が発行している季刊誌「Music in life」春夏号の巻頭インタビューが 先日当店Wurly's!にて行われました。

今回「楽器店で音楽チャージ 」という特集の巻頭記事で、 アレンジャー/キーボード・プレーヤーである新川博さんよりお話を伺いました。

>季刊誌「Music in life」春夏号

新川さんは以前より度々ご来店頂いておりまして、インタビューと言ってもいつもの和やかな雰囲気の中、 エレピの変遷をずっと見てきた新川さんが、自身の楽器と音楽の過去から現在を語って下さっています!

※このブログではインタビューのノーカット版を掲載しています。




――新川さんの楽器の最初は?
5歳で始めたピアノ。習い事始めで、ピアノをやるやつもいればヴァイオリンやるやつもいるという時代で、自分の意思で始めたのではないですよ。でも先生がすごく怖くて怖くて、やめたくてしょうがなかった(笑)。 小5のときに、Char(チャー)が隣のクラスにいるのがわかって、ギター上手だった彼の兄貴を見に、よく家に遊びに行っていた。そのうち自分らも見ようみまねでベンチャーズなんかを弾くようになって、バンドをやるようになったんです。レッド・ツェッペリンやクリームもやるけどテンプターズもやるというバンド(笑)。子どもってジャンルが全然違ってもいいと思えばやれるのがかわいいよね。

――次に手に入れたのはエレキギター?
当時は新品の楽器は高くて買えず、渋谷のヤマハのショールームは楽器を見に行くところ。レコード屋の壁に吊り下がっているレプリカや、質屋でバッタもんのエレキギターを買うのが常套手段だった。僕が最初に買ったのもレコード屋で、クラシックギター。のちに買ったべースは丸井のクレジットで。フェンダーとかギブソンって何十万円もして、手を出せるものではなく、買ったのはグレコ製のフェンダーのコピー。38,000円だったかな?そういえばエレキブームの頃、日立が作っているスプレンダーっていうギターがあったなあ。日立製作所って今から考えれば超ブランドだよね(笑)。

――エレクトリックピアノを弾くようになったきっかけは?
小学校からやってきたベースにそろそろ飽きてきた頃、世の中にジャズロックのような4ビートだけでなく8ビートで奏でるジャズが出てきた。少しパターンが違うけどセルジオ・メンデスの音楽に出会い、ピアノでもジャズやポップスは弾けるかなと思って、自分でコードブックをつくってバート・バカラックなんかを弾いていましたよ。レコード屋で買ったクラシックギターで、「Cはピアノならドミソでいいのかな?」って1個ずつ。当時はコードといえばギターのもので、コードが付いているピアノ譜はなかったから。 セルジオ・メンデスはブラジルの人でもともとはボサノバをやる人なんだけど、自分では作曲はしない。たとえばビートルズの曲をボサノバ風にアレンジしていて、そこでアレンジというのを知ったし、セルジオ・メンデスの作品をアレンジしていたデイヴ・グルーシングルーシンという人は、ジャズの有名なキーボーディストで、アレンジャーという職業だと初めて知った。僕等の先輩たちは楽器はやらずに譜面を書いて棒を振っていたけれど、僕の世代のアレンジャーは武部聡志も佐藤準も後藤次利も、バンドで何かの楽器を弾きながらからアレンジをする。ガラッと変わったんですよね。

――エレクトリックピアノを手に入れたのは?
高校生のとき、頼み倒して親にフェンダー・ローズを買ってもらいました。母親も「変な二番煎じを買うなら、いいものを買ったほうがいいわよ」と言ってくれて。71年とか72年だったと思います。生ピアノもハモンドオルガンもエレクトーンも自分で運ぶ楽器ではないけど、ローズだったらなんとか運べる。コンパクトになってケースに収めて運べるようになったのはほんの最近の話ですよ。今は軽くて持ち運びが楽で、似たような音が出るイミテーションの楽器もいろいろあるので、練習のときや階段しかない本番の会場ではそれを使ったりしていて、とても助かってます。モデルチェンジしながら新品が出ていたのは10数年ぐらいですかね。 80年代にヤマハのシンセサイザー、DX7が出て、最初はDX7のほうが浮いていたのに、一夜にして背景ががらっと変わって、ローズのほうが合わなくなっちゃったのが80年代後半から90年代の初め。それを目の当たりにしたのはちょっとショックでした。ハイ・ファイ・セットのツアーステージでローズを使っていた頃、4〜5台ほどローズを持っていた会社から、「倉庫にあるローズ、捨てるんだけどいらない?」と電話がかかってきて、それならもらうよと言って、部品をかき集めていい1個体を作ったりしながら使い続けてきました。

――そういう時代があったんですね。
10〜20年ぐらい前はゴミ同然だったんですよ。それからシンセになり、デジタルシンセになりサンプラーになり…。新品を売っている時代はもちろん、古き良き時代のエレピを集めているウーリーズのようなお店で買うという感覚はあり得なかった…。時代の変遷とともに楽器が変わっていくのを間近に見てきて、僕も六十歳になって自分の人生を振り返ってみると、ちょうど僕等の青春世代とともにあったのがエレクトリックピアノだからこそ、僕等がずっと大事にしていかないといけないかなと思えるんです。

そうそう。ベースも買いましたもん。本物のフェンダーベースを。40代のとき宮地さんで。80万もしました!!うちのスタジオに置いておくと、仕事で来た人が「このベースいいね、貸して」。そのうち「ツアーに持っていっていい?」。しまいには「売ってくれない?」と。「俺、80万で買ったんだけど…」と言うと、「じゃあ80万で買うよ」と言って、松原秀樹の手に渡ってます(笑)。話によるとついに150万になったらしいですよ。そういうものみたいですよね、エレキギターのヴィンテージものって。ギターフリークでもあるよっちゃん(野村義男)が、「半年も経てば必ず買った値段では売れますよ」と言ったのはそのとおりだったなあ(笑)。

エレクトリックピアノは、また最近ヴィンテージを扱うウーリーズのようなお店ができたので助かるよね。新品だとカタログを見ていればいいんだけれど、中古って1点1点違うから、実際に見て、弾いてみないと善し悪しがわからない。メンテナンスをやってくれるのもありがたい。以前はパーツもすべて持っていて全部自分でやっていたけれど、1つの鍵で調整する箇所が10ぐらいあるから、73鍵分は気が遠くなる作業。「まだ仕事にかからないんですか?!」と仕事のスタッフに怒られていました(笑)。強く弾くとタインが折れちゃって音が出ないから、地方のステージではよく使う鍵盤だけ直して、使わないところは東京に帰ってから直すとかしてましたよ。

――新川さんのこの先の音楽は?
生のピアノや電気ピアノの音で始まり、この楽器とともに育ってきたから、素の状態になると自然とこの音に返るんですよね。自分の一番ベーシックな音なんでしょう。人生60年にもなると、いかにベーシックに戻るかというのがテーマになるので楽器もこれを使いたくなる。僕は編曲という仕事で作曲家さんのお手伝いをしてきたので、人生の残りの時間を考えると、もうそろそろ自分のためになることもやりたいと思っています。これからは自分で曲を書こうかなと。曲は後世に残るのでね。メロディーと、楽曲のコアになる部分を担当する、ピアノとベースをやってきたこともあるので、それを足して2で割ったようなところが自分の感性かなと思ってます。

最近、結構地方のライブハウスでも仕事をするようになっているんです。僕はどうもへそ曲がりで、北海道なら札幌じゃなくて道東の網走とかに行ってしまうんですけど(笑)、ユーミンとかハイ・ファイ・セットとか、大きいツアーしかやっていなかった昔からすると、目から鱗の新鮮体験ですよ。「アザラシかクマしかいないところだよ」と言われて行ってみると、とてもいいライブハウスで、高級なギターが並んでいてお客さんは満杯。夏はウニ漁師、冬はライブハウスをしているというオーナーは同年齢。同時代に音楽を楽しみそれぞれ違う人生を歩んだけれど、子どもを育て上げ、あとはお釣りみたいな人生というのが共通しているから話が合うし、ディープなつながりが生まれる。音楽って、そういうものですよね。そうんな出会いが各地であって、とても楽しいですよ。



新川博(しんかわひろし)プロフィール
アレンジャー、キーボード・プレイヤー。1955年東京生まれ。日大芸術学部在学中よりハイ・ファイ・セットのバックバンドとしてプロデビュー。25歳より松任谷由実のステージ監督としてツアーに参加。28歳よりレコーディングアレンジャーとしての活動を本格スタート。2000年にビクターエンタテイメント内にAOR Jazzレーベル「aosis records」を設立。プロデューサーとして活動する傍ら自身のソロアルバムを3枚リリースしている。



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